虹を見たかい
やっちまった。先週も通った道だし。四駆だから難なく行けるだろう、と高を括っていた。軽い気持ちでやり過ごすつもりが、泥水に隠された轍は、水際からは想像がつかないぐらい複雑で、しかも深く掘り下げられていた。スタックしたタイヤは泥を撒き散らすだけで車体はビクともしない。何かタイヤに咬ますものが必要だ。河原に出て流木を探すが小一時間歩き回っても成果なく体力も限界が来ていた。容赦なく照りつける太陽から何とか逃れるために、日陰を求めて橋脚に向かって歩き出すと、どこからともなく、激しい吠え声が聞こえてきた。橋の下に近づくには、自分よりも背の高い葦を掻き分けながら細いけもの道を進まなくてはならなかったが、やっとの思いでたどり着いた開けた場所、そこに在ったのは、スケールのデカいバラック。そして、よそ者の気配を察知して吠え続ける見るからに雑種の白い犬がつながれていた。
ノドの渇きとめまいに襲われ、「誰かいませんか?」と声を振り絞った。青いビニールシートの扉から現れた男の風貌に呆気にとられている余裕もなく、その場にへたり込んでしまった。「ちょっと待ってな」とバラックの中に戻ったその男は、冷えたペットボトルと冷たいタオルを持ってすぐに戻ってきた。「ゆっくり飲みなよ」と差し出されたペットボトルの中身を一心不乱に飲み干した。頭はまだクラクラしていたが、体は内側からも外側からも冷やされて人心地がつき始めていた。「歩けそうか?」そう言って肩を貸してもらいながら日陰に移動した。
「すみません。堰に向かう途中で車がぬかるみにハマってしまって、何かタイヤに咬ませそうなものがあれば貸していただきたいんです」
事情を話すと、バラックの主は、裏から分厚く頑丈な木の板を2枚持ってきてくれた。
「少し休んでいきな。炎天下でもうひと仕事せにゃならんだろ。オレはわん公の散歩してくっから、適当にな」
そう言って、一人と一匹は、草むらに消えていった。
車に戻り、深い轍との格闘が再び始まった。簡単にはいかなかったが、借りた板のおかげで、何とか水たまりを脱することができた。友達との待ち合わせをすっぽかし、いい釣り座に入ろうと抜け駆けした罰だな。しかし、日の出前に家を出て、川に着いたのが5時、まもなく車がハマって、すでに11時を回っているから、立ち往生してからすでに6時間以上が経過していた。もう釣りをする気力など残っていなかったが、こんな風に体を酷使して汗と泥まみれになったのは学生時代の部活以来で、妙な達成感があり、なおかつ心が満たされていた。バラックの主にもう1度会うことはできなかったが、礼はまた出直して伝えようと決め、コンビニで買ってあったあんぱんとスナック菓子を借りた板の上に置いて、バラックから離れた。
帰宅して家の前で洗車していると、近所に住む小さな姉妹が外に出てきて、側溝に流れて行く泥水の川をおとなしく眺めている。しゃがみ込んだ二人の姿がとても微笑ましく、ついさっきまで河原で起こっていたことが夢のように感じられる。陽はまだ高く、ホースの水が車体に当たって飛び散るしぶきが、宙に虹色を浮かび上がらせていた。ふたりに知らせたくて、何度も「こっちこっち!」と呼んだが、車に近づこうとして水しぶきを浴びると、もうそっちのほうが楽しくなってしまった幼い姉妹は、「きゃーきゃー」と叫びながらぐるぐる走り回っていた。その光景はあまりにも眩しく、虹よりもきらきらして見えた。